連載エッセイ

「フレネミー」をテーマに小説を書いてみて気付いたこと

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「フレネミー」という言葉を知っている人は多いだろう。

と言うよりも、実際に身の回りに存在するそんな人物に振り回され、嫌な思いをした経験のある人も多いのではないだろうか。

たとえば「親友だと思っていた友人」「仲良くしていた同僚」、もしくは「親戚」「母親」といった人が実はフレネミーで、何らかの被害を受けたというケースもあるだろう。

私もそんな典型的なフレネミーと関わったことがある。そして、今はその経験を元に「フレネミーをテーマにした小説」を書き始めたので、ここでは最近私がフレネミーについて気付いたことを書いてみたいと思う。

私は過去に数人の「フレネミー」と遭遇したことがある。

ただの悪口になりそうなので、ここでは具体的な話はふせるが、彼女たちはただ「自分の体裁を守る」「自分が優位な立場に立つ」ことを自身の中での大義名分にして、人のことを傷つけることを平然とやってのける人たちだった。

それでいて、それが大勢に露見しないように巧妙に振る舞うのである。

つまり、自分のしていることは常識的に見れば「悪」なのだと本人たちも知っているけれど、彼女たちの中では、それをすることはある種の「必要悪」だという認識で、何の罪悪感も抱いていないところが特徴だ。

実際に、私は彼女たちとの関係で「嫌な思いをした」というレベル以上の被害を受けたが、相手のほうはどこ吹く風である。

しかし、そんな彼女たちとの関わりには「悪い意味」での影響が大きかったものの、その反面、その経験から得られたものもあると思っている。

それが何かを分かりやすく言うならば、「想像力」や「物事や感情を客観的・論理的に考える癖」といったものである。

つまり、私は、彼女たちとの関係で嫌な思いをするごとに、彼女たちの考えていることをあれこれと推測し、また自分の感情についても一歩引いた目線で論理的に考える、という癖がついたのである。

そんな能力は文章を書く時、特に小説を書く時に役立つものだ。

今書いているのは、実際にあったエピソードを元にしたフィクション小説だが、その中には、当然「フレネミーの特徴を備えた人物」が登場する。

そして、その人物たちを小説として描いているうちに、さらに物事を俯瞰的に見ることができるようになったのである。

つまり、自分の過去の経験と小説の登場人物たちのキャラクター性がうまく相乗効果を成して、ずる賢く図々しいフレネミーの言動の裏にある感情の流れが、より自然な形で理解できるような気がしてきたのだ。

ある意味、フレネミーたちの考えていることはとてもシンプルである。

彼女たちは自分の問題を自分で対処できない。だから当然のように他人を巻き込んでくるのだが、結局その問題は彼女たち自身のものなので、本人たちにしか解決することはできない。

にもかかわらず、そこに他人を巻き込んで何とかしようとするので、彼女たちの抱えている問題はさらに大きくなり、真の解決からはどんどん道がそれていく。

そんなシンプルな感情や物事の流れを、小説で描こうと今は奮闘している。

小説でうまく表現でき、良い作品に仕上がれば、ここにきて、今ままでの苦労も報われるというものだ。

逆に言えば、もしかすると、フレネミーと関わった経験は良い作品を書くために必要なものだったのかもしれない。

この小説を書き上げることで、自分の経験がうまく作品に昇華され、それを読んだ人たちが何かの気付きや答えを得ることができるなら、過去の経験も無駄にはならないだろう。

そして、そうしたら、私はそこで本当の意味での「物書き」になれたと言えるのではないだろうか。

そんなことを思いながら、私は今小説を書き進めている。

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  • この記事を書いた人

ミヤノ カナコ

ブログ運営歴5年目のブロガー・フリーランスライター。OL時代には、多くのカスタマーセンターやヘルプデスクでメール・電話での問い合わせ対応に従事。現在は、ブログでの情報提供のほか、エッセイの発信を中心に活動中。このブログでは、ブログのつくり方や文章の書き方など、ネットビジネスに役立つ情報をお届けします。

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